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    神事としてのフラ

    • 2012.08.08 Wednesday
    • 16:40
     夏休みになると町内にある学校では規模の大小の差はあれども、盛大に夏祭りが行われる。こういう夏祭りのステージに付き物なのが、公民館で行われているおばあ様方によるフラダンスである。お年を召したおばあ様方が手をひらひらさせて一生懸命に踊っていらっしゃる姿はほほ笑ましく、私も数秒間、そのお姿を目に焼き付けて、あとはひたすら焼きそばを焼くことに専念している。


     さて、それはそれでいい。公民館フラダンスもおばあ様方の生きがいのひとつになっているのだから、十分に楽しまれるといい。しかし、フラダンスは本来的にお年を召した方々がひらひらやるようなものだったのかというと、少し違うようである。元々、このフラは神様に奉納する舞踊の意味もあったようで、若さ溢れる女性のみに許された神事だったといってもいいのである。ここでは、本来のフラという意味で、少しみなさんの視点をリフレームしてみよう。


     


     もちろん、神事だから男性だってフラを踊るのである。この筋骨隆々とした若者たちの踊りをご覧あれ。


     


     柔道でもフラでも、やはり本場のものには魂が宿るのである。町内のお祭りのフラを観た時には、もともとが神事であったフラのことを少し思い出してみると、また違った見方が生まれるかも知れない。


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    中世騎士団の秘密

    • 2012.04.15 Sunday
    • 11:43
     不死鳥の騎士団というとハリーポッターの中でダンブルドアが創設する秘密結社のことだが、騎士団という名前は知っていてもそれが何なのかは日本では知られていない。騎士団だけに騎士の集団という捉え方をしている方もいるだろうが、大外れでもないかわりに大当たりでもない。


     ともあれ、前世診断の上位には騎士かプリンセスがランクインするのだから、騎士団が何かを知っておいても悪くない。もともと騎士は言葉が示す通り、馬に乗って戦闘に加わる兵のことだったが、時代の変遷とともに名誉の称号となっていった経緯がある。前世ランキングに食い込んでいる騎士はこちらの騎士だろうと思うが、騎士団となるとちょっと趣が変わってくる。


     騎士団はキリスト教と深い関係があり、そのきっかけはやはり十字軍にまで遡る。始めの頃の十字軍の目的はただひとつ、「聖地エルサレムの奪還」である。イエス・キリストが亡くなったエルサレムを見事に奪い返した第一回十字軍は、このエルサレムにキリスト教国家のエルサレム王国を樹立、またその周辺のシリアやパレスチナにも十字軍に参加した諸侯が独自の十字軍国家を樹立したため、ヨーロッパから聖地巡礼湯けむりの旅を求めて多くの巡礼者がこの辺りまで足を伸ばすようになったのである。


     しかし、そうはいってもこの辺りはイスラムの力もまだ根強いものがあり、女性や子ども達を連れての巡礼は危険が伴う。この頃のイスラム教徒は「右手に剣、左にコーラン」なので「この世をば我が世とぞ思う三日月の拉致して売って家族安泰」を忠実に実行している頃である。聖地巡礼は極めて危険な聖なる旅だったわけである。


     そこで現れるのが、聖地巡礼者達の保護を目的とした騎士の集合体である「騎士団」である。騎士団なので剣や槍を携えた騎馬武者だったのだろうが、それだけでは騎士団とはいえない。それではただの騎馬軍団である。騎士団となるには、一生独身を通して、一切の私有財産を放棄し、質素倹約を旨として、神とイエス・キリストにすべてを捧げる誓いを立てなければならない。いわば、修道士と同じ誓いを立てるわけで武装修道士集団といった方が理解しやすいかも知れない。あるいは、鎌倉時代の比叡山延暦寺や興福寺などにいた僧兵のような感じである。ただ、あの僧兵は荘園の維持拡大や朝廷への強訴という私利私欲のために武装していたのに対して、騎士団の方は聖地巡礼者を保護するために武装していたわけで、その性格はまるで違う。どちらかといえば、騎士団の方が利自即利他の菩薩行といっていいだろう。


     聖地エルサレム奪還以降、小説「ダ・ビンチ・コード」でも有名になったテンプル騎士団をはじめとして、聖ヨハネ騎士団、チュートン騎士団などが結成されている。テンプル騎士団という名前を聞くと小説や映画の影響で「それはオカルトの世界で、実在しない」と考えている方もいるだろうが、十字軍によるエルサレム奪還後に創設された歴史上の騎士団である。騎士団こそが、武力を持って敵対勢力(おもにイスラム教徒)を駆逐する使命を帯びた精強な神の軍団だったわけである。


     ここまでブログを読んできて下さった方々の中には、どうして彼の地の宗教は戦争や人殺しを勧めるのかと疑問に感じる人もいるだろう。イスラム教徒を駆逐するためにイスラム教徒を殺戮して駆逐するのが騎士団や十字軍の仕事なのである。反対に初期のイスラム教徒の方も「イスラムの家」の拡大のためにはキリスト教を殺戮して駆逐するのが聖なる仕事だったのである。日本の平和的な宗教者を見ているとこの辺りは理解しづらいかも知れない。


     しかし、本来、宗教とはこういうものなのかも知れないのだ。現在までのところ、人間が持っている脳みそではこの辺りが閾値であるに違いない。ひとつのものを正しいと握り込めば、自動的にそれ以外のものを排除したくなるのが人間の脳みそなのである。排除しようと思ったものを、否定するか、仲間はずれにするか、追い返すか、殺してしまうか……は表現方法の違いに過ぎない。宗教や信念とは「これが正しい」と思うからこそ、「これ以外は正しくない」という二項図式にはまり込みやすいものなのである。


     ところが、騎士団の中には「剣」を用いない騎士団も存在したようである。塩野七生さんが書かれた「ローマ亡き後の地中海世界(上)」には、一切の軍事的手法を用いずに、イスラム教徒の海賊に拉致された人々の救出を成し遂げた「キリスト教徒救出騎士団」の存在が詳しく書かれている。設立はAD1218年、最後の救出行はAD1779年。その間の五百六十年弱の間に三百四十四回の救出行を行っているそうである。詳しくは同書をお読みいただくほかないけれども、こういう騎士団もいたことにどこか心の奥底がほっとすることも感じるわけである。


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    第一回十字軍の日本遠征

    • 2012.04.14 Saturday
    • 13:38
     歴史に「もし」をつけて考えることほど個人的な妄想を膨らませてくれるものはない。歴史学者には許されない遊びこそが、この「もしも?」というシミュレーションである。歴史学者でもない私達は存分にこの「もし」の世界を堪能することが許されている。いよいよ、今日はとっておきの「もしも」をシミュレーションしてみたいと思う。それは、「十字軍がもしも日本に攻め寄せてきたとしたら?」という妄想である。


     佐藤優さんは、一神教を信仰する教徒は他宗教に寛容であるとも書いていらっしゃるけれども、少なくとも中世の頃のキリスト教徒、いや正確にいえばローマ教皇はとても他宗教に寛容であったとは思えない。ギリシャ正教会やイスラム教徒に寛容だった神聖ローマ帝国のフリードリッヒ2世すら教皇から二度も破門をくらっているのである。かつてのローマのように多神教を奉じる日本など反キリストもいいところで、きっとローマ教皇は腰を抜かしていたに違いない。


     十字軍遠征は何度も行われているので、いくつかに抜粋して妄想してみよう。まずは、第一回の十字軍である。これは、AD1096年に始まっている。この頃の日本はどういう時代かというと、まさに現在のNHK大河ドラマで放送中の平清盛が活躍した時代である。といっても、この頃はあの伊東四朗演じる白河院の全盛期で平清盛も源頼朝も生まれてもいない。この時代、やっと源氏や平氏などの武士団がまとまり始めた頃で、かつての皇軍のような国軍はいない。つまり、カエサルやポンペイウスのように大軍を指揮して部隊を効果的に運用できるような人材は見当たらないというわけである。


     この十字軍はおもに陸路を通って東方に侵出したので、これも幸いに陸路で東方に向けて進軍という形が望ましい。「どうやら東方には反キリスト教の多神教国家があって、そこには黄金の泉が至るところから湧き出ているらしい」とか、「絶世の美女がいて救いを求めているらしい」などのうわさ話が十字軍の諸侯達の胸をくすぐるのである。エルサレムを攻略してさらに陸路を東方へと進む。途中の中央アジアで遊牧民達との戦闘をくぐり抜け、諸侯達は「黄金と美女」を求めて歯を食いしばる。宥和と妥協を知らないこの第一回十字軍は手向かいするものはひたすらに切り捨てて前へ前へと進むのである。


     この頃の中国は宋の末期である。西の方から西戎の王が来たらしいとの報せが皇帝にもたらせられるが、そこは大国の宋の皇帝である。十字軍の要請に基づいて船や食料を手配して日本への侵攻作戦を応援する。もちろん、中東の珍しい宝物の手土産と引き換えである。東シナ海に面する港に多数の軍船が用意され、十字軍は期待に胸を膨らませて出航する。航海長は宋の士官が務めるが直接戦闘には参加しない。第一回十字軍の兵数はもともとが少なかったので、日本に到達した頃には多くても二、三千人くらいだったかも知れないが、それでも宋から供与された兵船にのって日本海の波頭を乗り越えていくのである。


     そうなれば、いきなり都のある京に上陸するわけにはいかないだろうから、やはりここは元軍の作戦計画通り、九州北岸である。博多はこの頃も重要な貿易港だったので、この博多を押さえることで物資も食料も手に入るというわけである。また地味豊かなこの地域を補給基地として確保しておけば、東進の拠点とすることもできる。


    「西方の武装船団、宋を進発せり」との報告は当然に白河院の耳にも入るだろう。しかし、このような変事が起こればそれを上手に使って白河院を追い落とそうと考えるのが寄生虫藤原氏である。白河院は源平連合軍を繰り出して九州に派遣しようと計画するも、藤原氏は「敵国退散の祈祷を行っておじゃりまするし、まろ達も毎日歌を詠んでおじゃりまする」と邪魔をする。朝廷の公的な防衛軍を出そうとする白河院とそれを阻止しようとする藤原氏の争いで時間は刻々と過ぎていく。


     ここに至ればやむなしと脚光を浴びるのが、北面の武士である。白河院直轄部隊でもあった北面の武士団にそれぞれ手勢を率いて九州へ転進し武装船団を水際にて撃退せよ」との私的な命令が渙発されるのである。ここで武勲を挙げれば出世の道も拓かれると源平の一団が競って九州へ下る。


     斥候兵の情報からやはり博多沿岸が十字軍の上陸地点であると判断した源平連合軍は、早速博多の津を前面に控えて陣を敷く。矢盾を並べてまんじりともせずに待っていたところ、遥か彼方から無数の船団が迫ってくるのが見える。物見の報告から宋船である旨が伝えられ、源平連合軍も臨戦態勢を取る。この頃の源平の武士達は馬にのって弓を放ち、接近戦となれば太刀を振るという弓騎兵である。十字軍の上陸にあわせて源平軍が雨のような矢をいかける。鎖帷子の上から金属の甲冑をつけていた十字軍兵士達だったが、水際でぬかるむ砂浜の上に騎馬を引き出すだけでも大変である。当然ながら混戦となって各所で死闘が繰り広げられるわけである。十字軍兵士の槍は簡単に源平兵士の鎧を突き通すだろうし、源平兵士の方は比較的軽装の利点を活かして軽快に立ち回り上手に西洋甲冑の弱点を突いていく。


     さて、その勝敗の結果はさすがに分らない。源平連合軍が敗戦濃厚となれば九州一円から野武士のような武士団が駆けつけてくる可能性もあるし、戦慣れしている十字軍の作戦や猛攻、それに金属製の西洋甲冑に手も足も出ないかも知れない。ともあれ、もし十字軍が勝ったとしても、この時代はまだ自由に西洋から日本に船が往来できる時代ではないので、次第次第に兵力は漸減し、最終的には討ち取られてしまう可能性が高いのではないかと想像する。そして、もし、ジャポネ王国という国を彼らが作ったとしても、やがては数に優る日本人との混血が進み、鎌倉幕府などに取り込まれていくのではないかと妄想してしまうのである。


     ただ、十字軍の長駆がこの当時の日本にもたらす影響はかなりのものになったに違いない。武装、兵法、軍制などから、政治形態、宗教、美術、芸術、食文化に至るまで、海外の文物を吸収することにかけては右に出るものがいない日本人である。あっという間にこれらを消化吸収して、そこからオリジナルな文化を作り上げたに違いない。そして、そんな文化とはどんなものだったか……に心からの興味と関心をそそられてしまうのである。


     最後になったが、十字軍が夢にまで見た絶世の美女だが、おそらくこれは粉々に打ち砕かれたに違いない。当時の高貴な女性達を拉致して前線基地にまで連れてきてみれば、眉を剃り落としお歯黒で口中も真っ黒な妖怪のような女性達がそこにいたからである。きっと諸侯達はこう言うだろう……Oh! Mon Dieu!!


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    カリブではなくて、地中海の海賊

    • 2012.04.13 Friday
    • 13:05
     今でこそキリスト教の国々は、腕にものをいわせて世界中のあらゆる場所を席巻しているが、最初からそうだったかというとそうでもない。ローマの覇権に綻びが出始めた後、次々とキリスト教を信仰する国家が生まれたけれども、それは欧州内で留まっていたので、世界史的にそれほど影響を与えていたという感じでもない気もする。キリスト教対イスラム教という対立軸は、今でも中東や北部アフリカで見られるが、これも今に始まったわけでなくて、はるかAD650年代前後まで遡るのである。


     当時はイスラム教の動きが非常に活発で、「右手に剣、左手にコーラン」といわれるように、イスラム教徒は地中海各地のキリスト教を奉ずる都市に波状的に攻撃をかけていたことが知られている。その攻撃方法も実に多彩で、海賊としてのゲリラ戦、艦隊を準備しての本格的な攻撃、奴隷を確保するためのヒット&アウェイ電撃作戦などさまざまである。一説によれば、彼らによる海賊行為が完全に止むのは十九世紀まで待たなければならなかったというから、実に根深い問題だったわけである。


     神聖ローマ帝国などもこのイスラム教徒によるイタリア本土侵攻作戦対策といってもいいのではないかと感じるくらいである。西ローマ帝国亡き後、ローマを守る堅牢かつ精強なかつてのローマ軍団(レギオ)もなく、ローマ教皇は実に心細かったに違いない。実際、この時期の教皇は暗殺されている方がとても多い。「誰かローマを守ってくんねえかな」という思いはあるものの、ビザンティン帝国はイタリア本土を中心とした西側には関心が薄いし、蛮族なども自国の領土拡張で忙しい。


     当時のイスラム教徒は「国家」という概念を捨て、「イスラムはひとつ! ゴー! イスラム! ゴー!」という状態だったため、反撃を喰らわせようにも勝手が違う。こういう情勢の中、中世初期の地中海は、キリスト教徒にとっては生き地獄、イスラム教徒にとってはパラダイスともいえる地域になっていたわけである。


     漫画の ONE PIECE ではドクロの旗を掲げて堂々と海賊船であることを示してやってくるのが海賊だが、実際のところ、この頃の海賊は身分を詐称するのが当たり前だったようである。仲の良い交易国家の旗を高々と掲げて「はーい、ども! いつもお世話になってます」と笑顔で近づき、相手が油断したところで、「ヒャッハーー!」と海賊に変身するわけである。そのまま数百人、数千人と拉致して母港に帰投し、奴隷売買センターに売り払って生活を立てるのが生業だったのである。


     この大きな原因のひとつとして考えられるのは、この頃の地中海には海賊を駆逐できる力を持った強大な国家が存在しなかったということだろう。実際、ローマが精強なローマ軍団を持っていた頃は、海賊は徹底的に取り締まられていたのである。共和制ローマの執政官だったポンペイウスは、BC67年にこの地中海一帯の海賊掃討大作戦を決行して、なんとわずか五十日間前後ですべての海賊を討ち平らげてしまったという。この頃は精強無比なローマ軍団が十二万人、軍船五百隻、幕僚十四名という大掛かりな布陣で臨んでいる。


     返す返すも指導者層の厚みが国力を決定づけるのだと勉強させられる。精強無比なローマ軍団がいたところで、それを指揮する指揮官がヘタレなら戦には負けるのである。しかし、烏合の衆の集まりでも指揮官が卓越していれば戦に勝つこともあるのである。海賊をたった数ヶ月で平らげる力を持っていた時代のローマには、前述のポンペイウス、独裁官となったスッラ、ガリアを平らげたカエサルなど軍事にも政治にも寝技にも長けた指導者が多く輩出されているのである。


     国力が低下するということは国家としては衰退に向かっているということである。そして、その衰退はどういう形として一番現れるかというと、人材不足という形になって現れるのである。この人材不足が各界の指導者欠乏症に陥らせ、全体が地盤沈下のようにズルズルと下がっていくのである。


     ともあれ、そうしたイスラム教徒の海賊とキリスト教徒の確執は、このように微妙な影を現代にも投げかけている。平安貴族が都で「いい月でおじゃる」と月見などをしている時に、日本の地方では庶民が惨状に喘いでいたのである。同じ瞬間、地中海ではキリスト教徒が海賊の恐怖に怯えて海の彼方に目を凝らし、イスラム教徒の海賊はシロッコを追い風に獲物となる国を目掛けて一目散に船団を走らせていたというわけである。それらをすべて見ていたのが、今も天空にある太陽と月なのである。


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    レジスタンスやパルチザンが日本に生まれない理由

    • 2012.04.12 Thursday
    • 13:55
     国家という組織は、国土が広大になればなるほど強国になるかというと実はそうではない。おそらく、国家を統治する「人類」の脳みそには閾値というものがあって、その閾値を超えて国土を広げ大国になろうとするとさまざまな問題を発生させてしまう傾向があるようである。ローマ帝国も、モンゴルの元も、オスマン帝国も大国となって閾値を超えて以降は、胎内で押えつけていた諸部族の蜂起を許すこととなり、宿主である大国は滅亡に向かって進んでいくことで共通している。


     そうならないようにするために、大国はいろいろと知恵を使って統治しようとは試みる。ローマの属州システム、オスマン帝国の属国システムなども、広大な領土を少数の指導者で統治するのは困難だからこそ、考え出されたものなのかも知れない。


     日本人がどこから来たのかは相変わらず定説がいろいろあって詳らかでないけれども、察するに現代日本人の流れは征服王朝だろうとは察しがつく。日本書紀などにも土蜘蛛や熊襲を征伐したなどの記述があるので、おそらくこれは土着の先住民か、征服王朝にまつろわぬ豪族のことだろう。そうした「まつろわぬ者」たちを血祭りにあげて日本制覇を完了したのが大和朝廷なのではないかと推測するのである。これは概ね間違ってはいないだろう。


     こうして征服した以上、放っておくと被征服民がレジスタンスとして蹶起するのは当たり前である。二階から目薬を指すとまず外れるように、被征服民を放っておくと反政府抵抗勢力になるのである。共和制ローマの頃のヨーロッパも、それで再三に渡って悩まされ続けてきたわけである。日本を征服した勢力が、レジスタンス対策に何の手も打たないということはない。そこで、征服した地域を西海道、山陽道、南海道などの行政区分に分けて統治するのである。ローマの場合には、結果的に周辺部族によって息の根を止められてしまったが、日本の場合にはとりあえずは表向き、レジスタンスが成功した試しはない。日本では革命は起こらないというわけである。


     これはなぜか……。ローマですらかつての属国地域に勃興してきた勢力から引導を渡されたのである。ローマよりも遥かに弱小国家だった大和朝廷が一度もひっくり返ることなく続いてきたのはなぜか。ここにはきっと何かとっておきの秘密があるに違いないのである。それがいったい何なのか。ぜひ、みなさんご自身で空白にしてみていただければ幸いである。個人的な考えでは、人類の脳みその閾値をギリギリ超えなかったことも要素のひとつかも知れないと考えている。もちろん、こうしたことは複数の要因が複雑に絡み合っていることなので、ひとつの個人的主観と捉えていただえれば幸いである。


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    ローマと日本の戦闘集団

    • 2012.04.11 Wednesday
    • 12:05
     国というのは電球のように明滅を繰り返すものだが、その明滅の中にいるのは生身の人間である。そして、多くの場合、一国を率いる指導者層や君主の脳みその出来不出来によってその明滅が決まってくるケースがほとんどである。一国のリーダーはそれだけ重責を担っているわけである。


     ユリウス・カエサルは、行き詰まった共和制を帝政へとシフトするためのフレームワークをなしたことで知られるが、志半ばにして凶刃に倒れる。そして、織田信長公も兵農分離をなして職業軍人を生み出すなど大掛かりな改革を行っているのだが、こちらも本能寺で凶刃に倒れる。従来の既成路線を大きく改革する者はこうしておおむねそれに反対する者達から葬られるのも人類の歴史である。


     さて、兵農分離といえば今では当たり前という感覚があるが、民間人が祖国を守るために敵と戦うという本来の視点からみれば異色である。ローマの市民権を持つ者の権利は「兵役」であった。これは「義務」ではなくて、「権利」と当時のローマ人は考えていた節もあり、一人前のローマ市民としての誇りでもあったようである。普段は農耕などに従事しながら、いざ戦争となると自前で武装して指揮官の配下に加わり、戦地に赴くのである。


     こういうフレームを大幅に変更したのが、ローマでいえばガイウス・マリウスであり、日本でいえば織田信長公や豊臣秀吉というわけである。それまでは戦時だけ編成されていた兵隊を恒久的な組織へと変更することで、一人一人の兵士のプロ化を促進し、農繁期などに左右されない長期的な展望に立った軍の運用ができるようになったわけである。もっとも、マリウスの軍制改革はローマが抱えていた失業者問題を解決するための方法のひとつとしても実行されたものだけれども、これが兵農分離を生んだことは間違いない。


     そして、ローマなら職業軍人、日本なら武士や足軽などの戦闘専門集団が生まれると、指導者は彼らに仕事場を与えなければならない。今の自衛隊なら災害派遣や日々の訓練を粛々とやってくれるだろうが、この頃の職業軍人達はそうはいかない。なにせ、戦となれば公式に略奪までも許されるし、戦地で大手柄を挙げれば指導層への出世の可能性も出てくるのである。仕事にあぶれたプロレタリアートや浪人達が一旗揚げようと意気込むのも当たり前である。


     その結果、戦争を求めて外地に出て行くようになるというわけである。ローマの覇権もそうだし、豊臣秀吉のアジア制覇もそのひとつだろう。豊臣秀吉は晩年おかしくなったという人もいるが、多くの職業軍人を抱えていれば、その働き口を探すため外に出て行くのは洋の東西を問わず当たり前である。マリウス指揮下の職業軍人達も自分達が定住できる地域を探すためにも死にもの狂いで戦ったのである。


     さて、こうなると現れるのが兵の私兵化である。もともとローマという国家を守るためにローマ市民権者達を招集したのがローマ軍団だったのだが、志願制の職業軍人制度にかえたことで、指揮官と兵士達との結びつきがより強くなってしまったのである。武士の忠義などという概念はなかっただろうから日本の家臣団のような感じではなかっただろうが、マリウス以降の指導者達はそれぞれ子飼いの士官や下士官、そして兵隊を抱えて政治の世界にも手を伸ばしていく。


     そして、こうした組織というものは大規模になればなるほど情勢の変化に柔軟に対応できなくなり、やがて形式化して弱体化していく。すべては人間の脳みその胸先三寸である。食料を満足に得られない兵士、働きに見合った給料をもらえない兵士の士気が下がるのは当たり前で、人間の脳みその歴史をこういう視点で観察してくのもまた面白いものである。


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    防壁が教えてくれる生命線のありがたさ

    • 2012.04.10 Tuesday
    • 14:16
     洋の東西を問わず為政者というものは橋や壁などの建造物が好きである。好きというと語弊があるかも知れないけれども、自分の権威を他に見せつけ、同時に公共の役にも立つものを普請するとすれば、橋や壁がもっとも手頃なのかも知れない。手頃とは言っても、こうした構造物を作るには相応の技術力が必要だろうから、文明の進捗状況を知るには打ってつけである。


     日本では秦の始皇帝が着手して、その後歴代の王朝が引き継ぎながら完成させた万里の長城が有名だが、これと同じような石の壁がローマ帝国内にもあった。ハドリアヌスの長城ともいわれるその壁は、完成時の総延長118キロに及び、グレートブリテン島を真横にまっぷたつに横切る石の壁であったそうである。ローマ覇権下でブリタニアと呼ばれたこの地域には、以前として戦闘民族のケルト族が蟠踞しており、彼らからの侵入に頭を悩ませたハドリアヌス皇帝が、物理的な壁を作ってしまおうということでAD122年に着工させ数年後に完成させている。


     この頃の日本の帝は景行天皇という帝だったそうだが、実在したかどうかは詳らかになっておらず神代の時代といってもいいかも知れない。日本でこういう大規模な防壁が出来るのはAD644年の水城(みずき)まで待たなければならない。こちらの方は周辺民族による侵入というより、当時の日本よりも遥かに先進国だった唐と新羅(しらぎ)の連合軍による太宰府急襲作戦に備えてのものだったといわれている。


     朝鮮半島の百済(くだら)と仲の良かった日本の朝廷は、百済が新羅から攻め滅ぼされ領土を回復したいので助勢して欲しいとの百済パルチザンの申し出を受けて、大軍を百済に派遣。しかし、朝鮮半島を呑み込もうとする二代皇帝太宗により新羅の後ろ盾となった唐が参戦してきたことで劣勢となり、白村江で完膚なきまでに叩きのめされてしまった。その結果、唐と新羅連合軍による太宰府反撃に備えるために急ピッチで作られたのが、水城という土塁である。実際には、唐と新羅連合軍は姿を見せず、水城は実戦で使われぬまま朽ち果てていくこととなる。


     現代のハイテク武器からみればこのような壁などはなんの役にも立たないけれども、古代の人々からすればまさに生命線であったはずである。西ローマ帝国はフラウィウス・アウグストゥス・ホノリウスという皇帝を最後に実質的に滅亡する。それも周辺部族による領土侵攻である。中国の各王朝も同様でおおむね周辺部族の領土侵攻によって滅亡を繰り返している。


     古代のこうした壁や城壁こそが、現代でいうところのイージスシステムなどのミサイル防衛網だったというわけである。洋の東西を問わず、文明国はより文明途上国に滅ぼされ、その文明途上国も文明国となってまた新興国に滅ぼされていくのである。ただ、例外も少しあるようで大和朝廷以降の日本についてはこれまでのところ亡国を経験していない。ここもまた興味深いところである。


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    富と権威権力はそれぞれ分けておくことが本当の新世界秩序なのである

    • 2012.04.07 Saturday
    • 12:37
     現代社会は権威と権力を持つものが富を手にする時代である。富を人よりも多くかき集めた者が権力や権威を手に入れることができると言い換えてもいい。それが資本主義というシステムである。


     そこで、多くの人々はまずは富を人よりも多く手に入れようとし、その富の量と自分の地位を同一視していくこととなる。しかし、「志」なくして富、権威、権力を手に入れようとする者が、それらを手に入れると下々は大変である。人は生来、富への誘惑には弱いものだから、富を餌にぶらさげられると、簡単にコロリと意に染まないことでもやってしまう。その結果、だんだんと世の中は逼塞して、生きづらくなってくるのが常である。こういうのを悪貨は良貨を駆逐するという。社会が完全に行き詰まるとそれをひっくり返すような動きがあり、世の中はひっくり返って振り出しに戻る。


     こういう人間が生来持っているバグを上手にデバッグした人物が徳川家康公である。彼は、富と権威権力を二分割して、これを上手に使って徳川二百五十年の天下泰平の礎を築いた。まず、富の方は加賀前田家の120万石を筆頭に、薩摩島津家72万石、仙台伊達家62万石、筑前黒田家52万石など主に外様の大大名に分け与え、幕政参加の権利や各種人事権、他の大名を懲罰する権利などは親藩や譜代の大名に与えている。富をもらった大名達は幕政に参加する資格はないし、幕政に参加できる譜代の大名達は少ない石高でやりくりをするしかない。


     こうして富と権威権力を同時に手に入れることができないように注意深く天下の仕分けを行ったわけである。日本全国の石高がおおよそ3000万石といわれていた江戸時代、徳川幕府の直轄領として400万石、旗本領として400万石とすれば、あわせて800万石が幕府の持つ石高である。富と権威権力の双方を握ることができるのは、ただ徳川宗家だけという状態を上手に作り上げ、その結果が江戸時代の安定期だというわけである。もちろん、厳密には朝廷を権威としてもいいけれども煩雑になるので割愛する。


     共和制ローマのカエサルも、「元老院最終勧告」という超絶秘密兵器を持つ権力者の集団であった元老院議員の数をそれまでの600議席から900議席に増やし、その増加分にガリア部族の長や部隊指揮官でもある百人隊長などをあてることで、塩水を薄めて権力を削ぐことに努めている。


     この「元老院最終勧告」は、元老院から「あいつは国家に対する反逆者だからやっちまえ」という事実上の死刑宣告のことで、ローマ市民権ホルダーなら当然受けることのできた裁判を受ける権利や控訴することのできる権利などおかまいなしに反逆者を死刑にすることができるものである。カエサルは、センプローニウス法という法律を復活させることで、元老院のこの超絶秘密兵器を封印することに成功した。


     さらにもう片方の権力組織であった民会を共和制の象徴的な存在として残し、護民官の方は終身独裁官を恒常化して拒否権を発動できないようにすることで骨抜きにもした。このように、権力や権威は放っておくと富を持つものに集まっていくので、これを意図的に終身独裁官、果ては皇帝にまで集約していくことでローマ国内の安定を図ろうとしたわけである。この辺りは徳川幕府の治世と似ていると感じるのは私だけではないだろう。


     さて、現代社会を翻ってみるとどうだろう。過去の偉人達が見抜いた人間という存在に対する深い洞察と同じマナコで、「今という時」を見てみると、これからどう世界を舵取りしていったら良いかが、次第に分ってくるかも知れない。富と権威権力はキレイに分けておくことが、「本当の新世界秩序」というものなのだろう。


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    もしも黒田官兵衛がローマ教皇ウルバヌス8世から教皇軍を任せられたとしたら?

    • 2012.04.06 Friday
    • 10:27
     筑前福岡藩の初代当主の黒田長政公は、実は洗礼を受けたことのあるキリスト教徒であったようである。その父の黒田官兵衛もキリスト教徒で、彼の洗礼名は「ドン・シメオン」という。シメオンのギリシャ語読みが「シモン」であり、英語読みが「サイモン」である。


     元々はユダヤ人の名前で旧約聖書にも出てくる古い名前のようである。加えて、官兵衛の号の「如水」も、一説によればあのヨシュア(ジョスエ:Yehoshuʿa)から取ったのではないかともいわれている。ヨシュアとは、あの「ジェリコへの聖絶」で有名な人物である。この聖絶を話し始めると長くなるので今日のところはwikipediaの聖絶の記事をお読みいただければ幸い。ごく簡単にいうと、「神への奉納物として、異教の神を拝むものとそれに関連する事物をことごとく滅ぼし尽くす」という目的のために、ジェリコという街を滅ぼした人物の名前である。


     さて、この黒田官兵衛は、秀吉公も内心ビクビクしていたくらいの野心家だったそうだが、もし官兵衛があの島原の乱の頃まで存命だったとしたら歴史は大きく変わっていたかも知れないと思うことがある。学校の教科書では、1637年に「島原の乱が起こる」としか習わなかったけれども、実はこの島原の乱にはローマ教皇も一枚噛んでいるかも知れないという話がある。この当時のローマ教皇は第235代ウルバヌス8世という人物で、天草四郎時貞が率いる一揆勢の原城への籠城も、NHK の番組内調査によれば、「イエズス会と縁の深いカトリック教国(ポルトガル)の援軍が来るまでの間籠城していればよいという作戦であったという説」があったようで興味深い。


     もし、この時にローマ教皇が諸侯に大軍を派遣するように要請して、諸侯もそれに応えたとしたら九州地方は今頃別の国になっていたかも知れない。ところが、この頃のヨーロッパはドイツを中心に三十年戦争といわれる戦国のまっただ中で、正直なところ兵力を日本に派遣する余力はなかっただろうし、この頃の欧州諸侯の兵隊は直属軍ではなくて傭兵が大半だったので、傭兵を多数雇い入れて遥か極東の日本に派遣するなど想像することすらできないことだっただろう。なにせ渡航費、傭兵への報酬、支度金、輜重(武器弾薬食料)など目の飛び出るような膨大な金がかかるので、極東の島国の領土をもらうためにそのような投資などは考えもつかなかったことかも知れない。結果、これが日本には幸いするのである。


     よって、当然ながら傭兵中心の大軍は派遣できないし、もし少数派遣してきたとしても、当時の日本にはまだ戦国時代を生き残った立花宗茂公などの猛将、その猛将に忠実な死を怖れぬ家臣団がしっかりと育っていたので、金目当ての傭兵集団であれば、ある程度容易に撃退できただろうと推測できる。銃砲の保有率も世界屈指であったし、ロングレンジから白兵戦までホームゲームとして臨機応変の戦ぶりは容易に想像できる。いや、想像してみたい。



     ところが、ここに黒田官兵衛という智将が生き残っていたという乱数を加えると、俄然混迷としてくるのである。そもそもがキリスト教徒。地の理に明るい黒田官兵衛が、ローマ教皇側から派遣された傭兵集団を指揮するなど妄想しただけでも恐ろしい。勝利の暁には、九州一円はローマ教皇領に編入され、ノウェム公国という名前がつき、官兵衛はノウェム公シメオンという名前になって、徳川幕府と角を突き合わせることになったかも知れない。いや、あくまでも誇大妄想である。


     こう考えると、危機の時には中央集権的な国家の存在はありがたい。ローマ教皇やイエズス会からの軍事的アプローチが戦国時代まっただ中に行われていたとしたら、貿易の見返りに領土の割譲などもきっと頻発していたに違いない。歴史に「もし」は禁句だとされているけれども、こういう妄想をすることも現在に役立つ知恵を得るひとつの方法なのかも知れない。しかし、黒田官兵衛、本当に面白く興味深い人物である。


     おまけ:京都外国語大学「黒田官兵衛の魅力 天下を狙った播磨の智将への出典協力
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    カノッサの屈辱

    • 2012.04.05 Thursday
    • 11:20
     中世の頃には欧州も王制を選択した国家が多かったが、それから古代ローマの頃まで遡ると、少数のリーダーが誇りと責任を持って国民の預託に応える共和制という政治形態もあった。一人の人物がピラミッドの頂点に立って政治を行うと、そのトップが暗愚だった場合、昨日の黒田騒動で見たように下々は大変である。命がいくつあっても足りない。やはり、個人的主観ながら共和制のように少数のリーダーが、身の丈にあった国の舵取りを行うという形が一番人間には合っているのかも知れない。


     さて、世の中にはたくさんのピラミッド構造の組織があるが、やはり世界最大で最強となれば、バチカンだろう。中学程度の歴史では習わないけれども、高校の世界史では習う大きな出来事が「カノッサの屈辱」である。このカノッサの屈辱という出来事は、神の言葉の代弁者である教皇と現実世界の皇帝である神聖ローマ帝国の皇帝とどちらの方が権威があるか……という争いの結果を指す言葉である。


     詳しくはそれぞれで調べていただきたいが、簡単にあらましをメモしておくと、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世から破門され、紆余曲折を経た後、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世が滞在していたイタリア北部のカノッサに自ら足を運び、「教皇、破門を解いて下さい……お願いします」と謝罪をしたのである。これには「屈辱」という言葉がついているから、これは皇帝側から見た言葉だろうが、教皇側から観たら「カノッサの栄光」というような言葉なのかも知れない。


     wikipediaを読むと比較的にグレゴリウス7世よりの立場で書いているけれども、塩野七生さんの十字軍物語などを読むとハインリヒ4世に対しても温情的な書き方であるように感じる。なにせ、ハインリヒ4世はこの当時二十代の血気盛んな若い皇帝である。対するグレゴリウス7世は五十代だったというから当時であれば親子に近い年齢差である。その血気盛んな若い皇帝を、猛烈な雪が降りしきる中、修道服だけを着せ、しかも裸足で三日三晩、門前に立ち尽くさせて詫びを入れさせたというから、これはグレゴリウス7世としてはやりすぎだったかも知れない。しかし、このことでシンプルにいえば「教皇は皇帝よりも偉いのだ」という認識が欧州に広まっていくのである。しかし、そのグレゴリウス7世はこの後、この屈辱を恨みに思ったハインリヒから次第に追いつめられていく。人に辱めを与えることほど恐ろしいことはないのである。


     さて、そんなバチカンの教皇も現在在位中のベネディクト16世で265代というから凄い。ローマ帝国や神聖ローマ帝国が亡んでも、ローマ教皇という地位は健在なのであるから、結果的にはカノッサの屈辱もグレゴリウス7世の勝ちだったのかも知れない。


     個人的にはキリスト教化されたローマはどんどん排他的になっていくので、比較的他民族や他者に対して寛容だった多神教の頃のローマを愛しているけれども。


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